“王の画家にして画家の王” |
|
RUBENS |
|
and the Brirth of the Baroque |
|
17 世紀バロック美術を代表する画家、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)。 彼は現在のベルギーの町アントウェルペンで修業し、大工房を構え活動しました。
しかし、画家としての独り立ちした直後の 1600 年から 08 年まで、おもにイタリアで過ごしたことは、わが国ではあまり知られていません。 ルーベンスはヴェネツィアやマントヴァ、そしてとりわけローマでさまざまな表現を吸収して画風を確立し、帰郷後はそれを発展させるのです。 |
|
本展は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みです。 彼の作品は、この地の芸術作品とともに展示されます。 古代やルネサンス、そして次の世代の作品とルーベンスの作品を比較することによって、彼がイタリアから学んだこと、そしてとりわけ、彼が与えたものはなんであったのか解明します。 ルーベンスとイタリア・バロック美術という、西洋美術のふたつのハイライトに対する新たな眼差しを、日本の観衆に与える最良の機会となることでしょう。 |
|
会期: 2018 10/16 [火]〜2019 1/20 [日] 展覧会は終了しました。 |
'2018 10_15 「ルーベンス展―バロックの誕生」 プレス内覧会・開会式の会場内の風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
人文主義者、外交官にして正真正銘のルネサンス人 |
人文主義者、外交官にして正真正銘のルネサンス人 |
日本初公開! ルーベンス 最後の大作 《聖アンデレの殉教》 |
「ルーベンス展―バロックの誕生」 |
|
みどころ 1. ―本邦初公開含むルーベンス作品約 40 点が 10 ヵ国より結集。 |
|
「展覧会の構成」 |
今回は、ルーベンスとイタリアの関係に焦点を当て、様々な美術館などから絵を貸し出しして頂いており、見ることが珍しく難しい作品 《聖アンデレの殉教》 マドリード、 《法悦のマグダラのマリア》 リール美術館からなどベルギー、ナショナル・ギャラリー、ウィーン、エルミタージュ美術館、リヒテンシュタイン侯爵家コレクションなど様々な国のコレクションが来ています。 その国を訪れないと見られない作品が、一緒の場所で展覧できる貴重な機会となっています。 |
'2018 10.15 「ルーベンス展―バロックの誕生」プレス内覧会の会場内風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
T 過去の伝統 |
|
・cat. 3 ペーテル・パウル・ルーベンスと工房 《セネカの死》 1615-16 年 油彩/カンヴァス 181 x 119.8 cm マドリード、ブラド美術館 /左・cat. 19 ティツィアーノ・ヴェチェッリオと工房 《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》 1560-70 年頃 油彩/カンヴァス 90 x 83.3 cm 東京、国立西洋美術館 /右・cat. 18 ペーテル・パウル・ルーベンス、ティツィアーノに基づく 《毛皮を着た若い女性像》 1629-30 年頃 油彩/カンヴァス 91.8 x 68.3 cm ブリスベン、クイーンズランド美術館 |
|
・cat. 3 古代ローマの哲学者セネカはネロ帝の家庭教師を務めていたが、のちに陰謀への加担を疑われて自殺を強要された。 セネカの思想はキリスト教に近いとされ、キリスト教徒に禁じられていた自殺によって死ぬため、ここでは図像を変更することで、自殺ではなく、他殺による殉教の性格を強める、自殺を強要する背後のふたりの兵士や画面右の人物は静脈を切っている。
セネカが上空を見上げているのは殉教者を髣髴とさせ、湯が張られた盥は洗礼盤を思わせる。 セネカの自殺は処刑による、極限的な苦痛を感じてもなお超然としたその態度に、人間の弱さを超越する美徳を認めていた。左・cat. 19 本作品は新約聖書にあたる洗礼者聖ヨハネとサロメの物語を題材としている。 王から与えられた、盆にのせたヨハネの首をこちらに、母に差し出すサロメである。
この絵の制作にはティツィアーノ自身が大幅に手を入れている。右・cat. 18 ルーベンスがティツィアーノに基づいて制作した作品の 1 点 「ヴェネツィアの娼婦の像」 と推測される。 ティツィアーノは、ルーベンスが生涯で最も影響を受けた画家であった。 |
V ルーベンスの世界 |
|
・cat. 34 ルーベンス作品の模写 《自画像》 1623 年以降 油彩/板 85 x 61 cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館 /左・cat. 35 ペーテル・パウル・ルーベンス 《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》 1615-16 年 油彩/板で裏打ちしたカンヴァス 37.3 x 26.9 cm ファドゥーツ/ウイーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション
/右・cat. 36 ペーテル・パウル・ルーベンス 《眠るふたりの子供》 1612-13 年頃 油彩/板 50 x 65.3 cm 東京・国立西洋美術館 |
|
・cat. 34 現在ウフィツィ美術館の、芸術家の自画像を集めたヴァザーリの回廊に飾られているこの板絵は、 1682 年にトスカーナ大公コジモ 3 世がフランドルで購入したものだ。 大公の叔父レオポルド枢機卿が始めた自画像コレクションで叔父もルーベンスの自画像を入手しようと手を尽くしたが、かなわなかった。 つまり本作品はコジモにとって、念願の 1 枚だった。左・cat. 35 本作品はルーベンスと最初の妻イサベラ・ブラントの長女クララ・セレーナに同定されたのは、大英博物館にあるルーベンスが描いた素描などから知られる母イサベラ・ブラントの容貌と、きわめて似ていることによる。 ルーベンスは家族への思いが強く、二度の結婚を通じて多くの子供を持った。 右・cat. 36 本作品がルーベンスの兄の子どもたちを描いたという説に従うと、右側の年かさに見える子が 1910 年生れのクララ、赤いビーズの首飾りを付けた左の子が 1611 年生れで、父親と同名のフィリプスということになる。 ルーベンスの家族愛は、友人たちへの愛情と並行するものであった。 |
X 神話の力 1 ―ヘラクレスと男性ヌード |
|
・cat. 55 ペーテル・パウル・ルーベンス 《へスぺリデスの園のヘラクレス》 1638 年 油彩/カンヴァス 246 x 128.5 cm トリノ・サバウダ美術館 /左・cat. 51 ピエトロ・ダ・コルトーナ(本名:ピエトロ・ベッレッティーニ) 《懲罰を受けるヘラクレス》 1635 年頃 油彩/カンヴァス 242 x 171.5 cm ファドゥーツ/ウイーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション /右・cat. 50 グイド・レーニ 《ヒュドラ殺害後休息するヘラクレス》 1620 年頃 油彩/カンヴァス 224 x 175 cm フィレンツェ、パラティーナ美術館 |
|
・cat. 55 ヘラクレスが龍ラドンを殺し、12 の功業のうち 11 番目にあたる仕事で、ヘスペリデスの園で守られている、ゼウス(ユピテル)の妻ヘラ(ユノ)の所有する樹から黄金の林檎を手に入れるというものである。 左・cat. 51 オウィディウスの 『名高き女たちの書簡』 によるヘラクレスにまつわる主題であり、友人イピトスを殺した罰として、リュディアの女王オンファレのもとで奴隷として働く姿を描いている。 ここでヘラクレスは棍棒を取り上げられ、糸紡ぎの道具を渡されている。右・cat. 50 ヘラクレスの 12 の功業のうち 2 番目のレルネのヒュドラ(水蛇)退治の話である。 画中でヒュドラ(水蛇)はすでに打ち倒され、ヘラクレスの足元の地面に横たわっている。 |
Z 寓意と寓意的説話 |
|
・cat. 65 ペーテル・パウル・ルーベンス 《エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち》 1615-16 年 油彩/カンヴァス 217.8 x 317.3 cm ファドゥーツ/ウイーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション / 左・cat. 64 ペーテル・パウル・ルーベンス 《ヴィーナス、マルスとキューピッド》 1630 年代初めから半ば 油彩/カンヴァス 195.2 x 133 cm ロンドン、ダリッチ絵画館 / 右・cat. 62 ペーテル・パウル・ルーベンス 《ローマの慈愛(キモンとペロ)》 1610-12 年 油彩/カンヴァス(板から移し替え) 140.5 x 180.3 cm サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館 |
|
・cat. 65 本作品は、アッティカの初代王ケクロプスの 3 人の娘たちの神話である。 ルーベンスの絵画はオウィディウスの 『変身物語』 に基づくされる。 三姉妹は知恵の女神より 2 匹の蛇の尾を生やした怪物のような、子供を籠の中に入れて三姉妹に託し、籠を決して開けぬように言いつけた。 だが、三姉妹のひとりは好奇心に抗えず、蓋を開けて子供を見てしまう。左・cat. 64 本作品には、ヴィーナスとマルスの愛による戦争の抑止力の寓意が表されているという。 息子キューピットに授乳するヴィーナスと、彼女の恋人マルスを描く。 豊満な裸体を正面から捉えられたヴィーナスは、上半身を軽くひねっており、この姿勢が腹部に柔らかな肉の襞を幾重にも生んでいる。 軍神の務めを忘れてマルスは兜を脱ぎ、楯も床に置いており、その肩付近のプットーも甲冑の留め金を外し、軍装を解く手伝いをしている.。 右・cat. 62 この主題は 16 世紀から 18 世紀にかけて、イタリアとオランダを中心に西洋で人気を集め、ルーベンスの時代には 「慈悲の模範」 として、キリスト教においては、慈悲は最も重要な美徳のひとつとされ、恵まれない者たちへの施しや、肉体および魂の病の治療に関わる慈善活動と結びつけられました。 ローマ市民キモンは罪を犯して牢獄に入れられ、食事を与えられることなく死を待つ日々を送っていた。 娘のペロは出産した直後であったため、彼のもとを訪れ、自らの母乳を与えて父の飢えを癒したという。 |
ペーテル・パウル・ルーベンス |
高徳さと賢明さ、教養ある知識人 ルーベンス 「重厚で慎重な物腰」 を備えた紳士 (「ルーベンス伝」ベッローリ) |
ベッローリ記するところの 「彼の天賦の善良さ」 の現れであって、ベッローリは画家の作品と同様にその人物像をも評価し、彼のことを 「荘重かつ人間的」
と形容した。 ルーベンスの偉大さは、ベッローリによって絶賛された 「絵筆の熱狂」 に如実に現れており、企業家としての才能と自分の工房の組織力に由来する膨大な制作の中に明白であって、また彼の時代ヨーロッパの政治的な出来事においても決定的なものだった。
またその偉大さは、17 世紀を通じての絵画文化の発展の中に反響してもいる。 ジュリアーノ・ブリガンティが鋭く洞察したように、ルーベンスの貢献は、根本的にバロックの肯定というところにあった。
それは、イタリアにおいては、 「1630 年代の世代」 の芸術家が含まれていたが、彼らはヴェネツィアの色彩主義の伝統に、雄弁な語り口による対抗宗教改革の注釈を加えたのである。 |
ペーテル・パウル・ルーベンス (1577 年― 1640 年) |
ヤーコブ・ブルハルトは、世を去るわずか 1 年前の 1896 年、ルーベンスの熱烈な文学的伝記を刊行した。 ブルクハルトの場合も、古典主義美学とラファエロ神話に基づく彼の趣味形成は、彼が生涯にわたって抱き続けたルーベンスおよびその作品に対する興味と、相容れないものであるように思われる。
ブルクハルトは画家の 「巨人的な空想力」 を大いに称賛したのである。 ルーベンスの芸術を見ると、「巨大な波に乗せられて運び去られ、分析することなど不可能となる」 ように感じると記している。 ルーベンスの無数の天分に次第に魅了されていった彼は、まさしく彼の描き方や生き方の表現に常に伴うかに見える調和に心を奪われた。
実際ブルクハルトは、ルーベンスが 「輝かしい気質の持ち主でもあって、その存在によって既に信頼や融和を生み出していた…」 と書いている。 ここには、画家を 「荘重かつ人間的」 と形容したベッローリの定義にきわめて近いものが認められる。 |
お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル) |
参考資料:「ルーベンス展―バロックの誕生」図録、PRESS RELEASE & 報道資料[ニュース vol.1] 、他。 |
ご意見ご感想は yashio@mui.biglobe.ne.jp |
Copyright © 2002-2018 Yashio.ALL Rights Reserved. |